暮らす
花巻の紹介

 花巻市は岩手県のほぼ中央に位置し、総面積は908.32平方キロメートル。西に奥羽山脈、東には北上高地の山並みが連なる肥沃な北上平野に位置し、季節ごとに変化に富んだ自然風景が広がる美しいまちです。

 気象条件は、北上川を挟んだ低地帯の東部では内陸型盆地気象が強く、特に夏場における昼夜の温度差が大きく、冬期は比較的温暖で積雪量が少ないです。一方、西部の奥羽山麓は寒冷多雪の気候に支配され、12月から3月まで積雪もありますが、奥羽山麓にさえぎられるため、日本海側よりは少ない積雪となっています。

花巻の自然

 市の中央を流れる北上川をはじめ、それに注ぎ込む澄んだ河川が、私たちに水辺の恵みをもたらします。奥羽山脈に源を発する葛丸川渓流では、奇岩や滝などの渓谷美と釣りや紅葉、森林浴を楽しむことができます。氷柱の太さでその年の米の作柄を占う「たろし滝」は、厳冬の風物詩となっています。周囲が45キロ平方メートルにもおよぶ人造湖、田瀬湖周辺は、ヨットやカヌーを楽しめるヨットハーバーやキャンプ場、釣り公園などが整備され、大自然を肌で感じることができます。

 春夏秋冬、移りゆく季節とともに暮らすまち、花巻市。私たちのまちには、美しい風景があります。

花巻ゆかりの偉人

宮沢賢治生誕の地

 童話や詩で知られる宮沢賢治ですが、このほかにも教育者として、農業者として、さらに天文・気象・地理・歴史・哲学・宗教・化学・園芸・生物・美術・音楽など多方面でその才能を発揮しました。花巻には賢治の足跡をたどることができる施設が点在しています。賢治の愛したふるさと花巻にぜひお越しください。

新渡戸稲造

 前5千円札の肖像として有名な新渡戸稲造(文久2年(1862)8月8日〜昭和8年(1933) 10月15日)は、「願はくは、われ太平洋の橋とならん」との信念のもと、国際人として、また教育者として活躍しました。

 

 彼の先祖は、1598年(慶長3年)から約230年間、花巻市高松に居住した武士で、新田開発など地域の発展に貢献し、稲造の父・十次郎まで花巻で生まれました。新渡戸家屋敷の跡には花巻新渡戸記念館が建っています。稲造は、明治39(1906)年から大正2年(1913)まで旧制第一高等学校長、大正7(1918)年東京女子大学初代学長に就任。 さらには、大正9(1920)年国際連盟が結成されると事務次長として草創期の国際連盟活動に尽力しました。

高村光太郎

 明治16年(1883)3月13日東京生まれ。明治39年(1906)に留学に出て、ニューヨーク、ロンドン、パリに滞在し明治42年(1909年)に帰国。大正3年(1914)に詩集『道程』を出版。

 

 大正15年(1926)には宮沢賢治が上京して光太郎のアトリエを訪れたと記録されています。宮沢賢治没後3年の昭和11年(1936)光太郎が揮毫した賢治詩碑が花巻市桜町に建立。昭和16年(1941)には詩集『智恵子抄』を出版。昭和20年(1945)空襲によりアトリエが炎上し、5月に宮沢賢治の弟・清六氏を頼り東京から花巻に疎開。同年10月に花巻郊外の大田村(現花巻市大田)山口の山小屋に移り、7年間、農耕自炊の孤独な生活を送りながら創作活動を行いました。昭和31年(1956)4月2日東京で死去。享年74歳。

萬鉄五郎

 明治18年(1885)11月17日東和賀郡十二ケ村(現花巻市東和町土沢)生まれ。子どものころから絵に親しみ、明治40年(1907)22歳のときに東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。明治45年(1912)東京美術学校の卒業制作である「裸体美人」(東京国立近代美術館所蔵・重要文化財)は、強烈な色彩と大胆な筆づかいで日本の前衛絵画の先駆的作品といわれています。

 

 大正3年(1914)から大正5年(1916)まで土沢に帰郷し、実家に近いモダンな木造西洋館にアトリエを構えて制作に専念して多くの作品を描きました。その後、東京や神奈川において創作活動を続け、昭和2年(1927)5月1日神奈川県茅ヶ崎市で死去。享年42歳 。

伝統芸能[ 神楽、鹿踊り ]

花巻温泉郷

 花巻市には、古くから湯治場として親しまれている花巻温泉郷、北上山系に湧き出た東和温泉、マイナスイオンを豊富に含んだひまわり温泉などその数は多く、東北でも有数の温泉地です。